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天地開闢と国産み

日本の神話と縁の社

「古事記」「日本書紀」に記されている日本の神話。
その主な内容と縁の神社をご紹介いたします。

※神話の内容や御神名は、

古事記の内容・表記をメインに、日本書紀をサブ的に参考にしました。

神武天皇~応神天皇

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神武東征(じんむとうせい)

「神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれびこのみこと)」と異母兄弟の「五瀬命(いつせのみこと)」は、高千穂の宮にて「天下の政を行うにはどの地がよいか」と相談をしていた。

 

結論は「東の地」を目指すこと。

そこで二人は軍を率い東の国を目指して、日向の国を出発する。神倭伊波礼琵古命、45歳の時であった。

筑紫国の岡田宮、阿岐国(安芸国)、吉備津国を経て、河内国(現在の大阪府)に到着する。

 

ここで「那賀須泥毘古(ながすねひこ)」の軍と戦いになり五瀬命は命を落としてしまう。


神倭伊波礼琵古命は紀国(現在の和歌山県)の竈山に五瀬命を埋葬し、熊野村へと到着する。


熊野では、大きな熊に化けた荒ぶる神と出会うものの、武神・建御雷神ゆかりの刀によってこれを討伐する。

この刀は天照大御神と「高木神(たかぎのかみ)」によってもたらされたものと伝えられている。

さらに高木神は、神倭伊波礼琵古命の夢に現れ「『八咫烏(やたがらす)』を遣わすので後をついていくように」と告げる。

神倭伊波礼琵古命の軍はその教えに従い八咫烏の後を追い、吉野の宇陀へといたるのであった。

大和国(現在の奈良県)の吉野に入って以降、神倭伊波礼琵古命の軍は土着の勢力を次々と打ち破る。


宇陀の「兄宇迦斯(えうかし)」、五瀬命の命を奪った「那賀須泥毘古」、忍坂(おさか)の「土雲(つちぐも)一族」などである。

連戦の疲れで神倭伊波礼琵古命は、「すっかり疲れ飢えてしまった。

島にいる鵜飼の者どもよ、すぐに助けてくれ」との歌を詠む。

 

ここに天忍穂耳命の子孫の「邇芸速日命(にぎはやひのみこと)」が参上し、宝物を献上するとともに神倭伊波礼琵古命に遣えることとなった。

その後も神倭伊波礼琵古命は各地の荒ぶる神々を帰順させ、降伏しない者どもを撃退し、畝火の橿原に宮をつくり初代天皇「神武」として即位したのである。

※写真は美々津浦と橿原神宮。

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狭野神社(さのじんじゃ)<宮崎>

神武天皇が誕生した地(皇子原)に創建されたと伝えられる。社名は神武天皇の幼名「狭野尊」にちなんでいる。

霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)<宮崎>

霧島東神社から遥拝する「御池(みいけ)」は、神武天皇が幼いころ、水辺で遊んだとの伝承が残っている。

宮崎神宮(みやざきじんぐう)<宮崎>

神武天皇が東征について相談をした「高千穂宮」の伝承地の1つ。宮崎市の中心部付近に鎮座している。

立磐神社(たていわじんじゃ)<宮崎>

神武天皇が東征に出発したと伝えられる「美々津浦」に建立。境内には「日本海軍発祥の地」の碑が立っている。

早吸日女神社(はやすめひめじんじゃ)<大分>

神武天皇が東征中、海神の姉妹より神剣を受け取り、その剣を御神体として、祓戸神を奉ったとの伝説が残る神社。

生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)<大阪>

難波(なにわ)は、神武天皇東征の際に立ち寄った地。生国魂神社の祭祀は、神武天皇の上陸に始まると伝えられている。

熊野速玉大社(くまのはやたまじんじゃ)<和歌山>

神武天皇が熊野に上陸した際に通った「神邑(かみむら)」の地とされている。

神倉神社(かみくらじんじゃ)<和歌山>

神武天皇が熊野に上陸した際に登った「天磐盾(あまのいわたて)」は「ゴトビキ岩」であったと考えられている。

飛瀧神社(ひろうじんじゃ)<和歌山>

神武天皇が那智山中に那智の御滝をみつけ、大己貴命をお祀りしたと伝えられている。

竈山神社(かまやまじんじゃ)<和歌山>

「神武天皇の東征」に同行した、「彦五瀬命(神武天皇の異母兄弟)」の陵墓に建立された社。

石上神宮(いそのかみじんぐう)<奈良>
大きな熊に化けた荒ぶる神を討伐した、「建御雷神ゆかりの刀」が祀られている神社。神剣の御魂を御祭神としている。
 

八咫烏神社(やたがらすじんじゃ)<奈良>
神武天皇を宇陀へと導いた「八咫烏」をお祀りしている神社。鎮座地は奈良県宇陀市。

 

石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)<大阪>
石切劔箭神社の上社は、天忍穂耳命の子孫「邇芸速日命」を祀る神社である。

 

橿原神宮(かしはらじんぐう)<奈良>
神武天皇の即位地である「畝傍山の東南の橿原の地」に建てられた宮。現在の社殿の創建は明治時代。

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綏靖天皇(すぜいてんのう)~開化天皇(かいかてんのう)

第2代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)・・・神武天皇の第三子
第3代・安寧天皇(あんねいてんのう)・・・綏靖天皇の嫡子
第4代・懿徳天皇(いとくてんのう)・・・安寧天皇の第二子
第5代・孝昭天皇(こうしょうてんのう)・・・懿徳天皇の太子
第6代・孝安天皇(こうあんてんのう)・・・孝昭天皇の第二子
第7代・孝霊天皇(こうれいてんのう)・・・孝安天皇の太子
第8代・孝元天皇(こうげんてんのう)・・・孝霊天皇の太子
第9代・開化天皇(かいかてんのう)・・・孝元天皇の第二子

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崇神天皇(すじんてんのう)・垂仁天皇(すいにんてんのう)

第10代・崇神天皇(すじんてんのう)・・・開化天皇の第二子。和風諡号(わふうしごう・実名)は「御真木入日子印恵命(みまきいりびこいにえのみこと)」。

流行する疫病をおさえる方法を崇神天皇が神意に問うと、「大物主神(おおものぬしのかみ)」が夢に現れ、「私の子孫の『意富多多泥古(おおたたねこ)』に私を祀らせろ」と告げた。


崇神天皇は意富多多泥古を探して神主とし、御諸山(みもろやま・現在の三輪山)に「意富美和大神(おおみわのおおかみ・大物主神)」を祀った。


また崇神天皇は各地平定のため、「大毘古命(おおひこのみこと)」を北陸に、「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」を東海に、「日子坐王(ひこいますのみこ)」を丹波に、「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」を西海に派遣した。


この4人は「四道将軍(しどうしょうぐん)」と呼ばれている。


第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう)・・・崇神天皇の第三子。和風諡号(わふうしごう・実名)は「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」。

先代の崇神天皇の御代に疫病や百姓反乱などが発生し、国中が混乱する。


その一因は、土地神である「倭大国魂(やまとおおくにたま)」と皇祖神である「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」が一緒に祀られているためであると判断された。

そこで天照大御神の神霊を「豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)」の身に憑け、倭の「笠縫村(かさぬいむら)」に移し祀った。

その後垂仁天皇は、その神霊を豊鍬入姫命から「倭姫命(やまとひめのみこと)」に移す。

倭姫命は天照大御神の鎮座地を求め、丹波、大和、伊賀、近江、美濃などを巡行し、ついに伊勢へと至る。


このとき倭姫命は、天照大御神より「美しい国である。この地に留まりたい」との神託を受ける。これが神宮(伊勢神宮)の始まりである。

※写真は大和(奈良)の檜原神社と伊勢(三重)の瀧原宮

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大神神社(おおみわじんじゃ)<奈良>
ご神体は「大物主神をお祀りしている三輪山」。三輪山の山頂には大物主神を祀る磐座(いわくら)がある。

狭井神社(さいじんじゃ)<奈良>
三輪山への登山道入り口がある社。大神神社より徒歩10分の地に鎮座している。

吉備津神社(きびつじんじゃ)<岡山>
四道将軍の1人、「吉備津彦命」をお祀りしている。吉備津神社には吉備津彦命の御陵がある。

伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)<福島>
四道将軍で北陸に派遣された「大毘古命」と東海に派遣された「建沼河別命」が共に北上し出会った土地に祀った神社。この地はその故事により「会津(あいづ)」と呼ばれている。

檜原神社(ひばらじんじゃ)<奈良>
天照大御神の神霊を移し祀った「笠縫村(かさぬいむら)」とされる場所。三輪山の麓に鎮座している。

籠神社(このじんじゃ)<京都>
倭姫命が天照大御神の鎮座地を求めて巡行した土地の1つ。天の橋立がある土地としても有名。

皇大神社(こうたいじんじゃ)<京都>
丹後国の元伊勢伝承地の一つ。近くには豊受大神社、天岩戸神社も鎮座している。

瀧原宮(たきはらのみや)<三重>
倭姫命は天照大御神の鎮座地を求めて巡行した土地の1つ。この場所から移った先が、現在伊勢神宮が鎮座している伊勢市である。

皇大神宮(こうたいじんぐう)<三重>
通称「伊勢神宮・内宮」。天照大御神の御神霊の現在の鎮座地である。

景行天皇(けいこうてんのう)と日本武尊(やまとたけるのみこと)

第12代・景行天皇(けいこうてんのう)・・・垂仁天皇の第三子。和風諡号(わふうしごう・実名)は「大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)」。

景行天皇には小碓命(おうすのみこと・日本武尊)という御子(第二子)がいた。
小碓命は幼いころより猛々しい性格であった。

小碓命は16歳の時に景行天皇より「熊曾(くまそ)」平定を命じられ、これを見事に成し遂げる。


この時戦った「熊曾建(くまそたける)」は、小碓命の勇猛さを称え「倭建命(やまとたけるのみこと)」の名を贈る。
以降、小碓命は倭建命と呼ばれるようになる。


大和国に戻った倭建命は、すぐさま東国の平定を命じられる。

東国へ赴く途中、倭建命は伊勢に立ち寄り、倭姫命より「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」を受け取った。

その後、尾張、相模、上総と行軍を続ける倭建命だが、相模から上総へいたる海上で、后である「弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)」を失ってしまう。

倭建命は上総の「蝦夷(えみし)」を平定した後、足柄峠に立ち寄り東国を一望。
この時亡き妻を思い、「吾妻はや(あずまはや・「わが妻よ、ああ」の意味)」と三度も嘆息をもらす。
東国が「あずま」と呼ばれるのはこの故事によるものとされている。


倭建命は、甲斐、信濃を経て尾張に到着し、「美夜受比売(みやずひめ)」を娶る。


ここで近江・伊吹山の「荒ぶる神」の話を耳にし、素手で討ち取ろうと草薙剣を置き山に登るのだが、山の神の障りにあい病に倒れてしまう。

その後なんとか尾張に戻り、伊勢に赴こうとする倭建命であったが、「能煩野(のぼの・三重県鈴鹿)」の地でついに力つき命を落としてしまう。
享年30歳であった。


この知らせを受けた倭建命の親族は大いに嘆き、亡くなった場所に御陵を造る。


そしてある日、その御陵に眠る倭建命の魂は白鳥と化し、大空へと飛び立っていく。

白鳥はその後、「河内国の士幾(しき)」に留まったと伝えられ、ここには現在「白鳥御陵」が造られている。

※写真は、足柄からの展望と白鳥伝説が残る大鳥神社。

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草薙神社(くさなぎじんじゃ)<静岡>
「日本武尊が剣をもって草を薙ぎ、窮地をしのいだ」との伝承が残る場所に建立された神社。この地は現在「草薙」の名がついている。

走水神社(はしりみずじんじゃ)<神奈川>
相模から(神奈川)上総(千葉)へいたる海上で命を落とした「弟橘比売命」ゆかりの神社。

筑波山神社(つくばさんじんじゃ)<茨城>
日本武尊が登頂したとの伝承が残る筑波山。その山上に鎮座する神社である。

三峯神社(みつみねじんじゃ)<埼玉>
日本武尊が東征の際に登山し、伊弉諾尊・伊弉册尊をお祀りしたと伝えられる社です。

金鑚神社(かなさなじんじゃ)<埼玉>
日本武尊が東国征伐の帰途に、倭姫命より賜った「火鑽金(火打石)」を鎮めたとの伝承が残されています。

熊野皇大神社(くまのこうたいじんじゃ)<長野>
濃霧により道に迷った日本武尊を八咫烏が現れ道案内したとの伝承が残る場所。日本武尊はこれに感謝し、ここに熊野の神を勧請したという。

熱田神宮(あつたじんぐう)<愛知>
ご神体は日本武尊ゆかりの「草薙の剣」。日本武尊の手を離れた後、この剣は熱田に祀られ、一度盗難にあうものの686年に再度奉納された。

大鳥神社(おおとりじんじゃ)<大阪>
大鳥神社の鎮座地は、白鳥になった日本武尊が最後に降り立った場所と伝えられている。

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成務天皇(せいむてんのう)・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)

第13代・成務天皇(せいむてんのう)・・・景行天皇の第四子。和風諡号(わふうしごう・実名)は「若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)」。
日本武尊とは異母兄弟。

第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)・・・日本武尊の第二子。和風諡号(わふうしごう・実名)は「帯中津日子天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)」。
先代の成務天皇は男児がなく、甥の帯中津日子天皇が後継者となった。

仲哀天皇は近江(滋賀県)の「高穴穂宮(たかあなほのみや)」で即位し、その1年後、「息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)」を后とした。

その後宮殿を敦賀(福井県)、穴戸(山口県)、筑紫(福岡県)と変え、筑紫の「訶志比宮(かしひのみや)」にいるときに皇后である息長帯比売命に神託がおりる。


それは「西方の国を帰属させよ」との内容であった。

仲哀天皇は「ここより西に国土はなく、海があるのみ。この神託は神が欺いているのである」として言うことを聞かなかった。


仲哀天皇はこのお告げに従わなかったことが原因で急死したと伝えられている。

※写真は気比神宮と香椎宮の古宮跡

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気比神宮(けひじんぐう)<福井>
「仲哀天皇が神功皇后と結婚後、敦賀(福井県)に造った宮殿跡と伝えられている。

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)<山口>
仲哀天皇は熊襲討伐のため拠点を穴戸(山口県)に移し宮殿を造った。その宮殿跡と伝えられている場所。

香椎宮(かしいぐう)<福岡>
仲哀天皇の筑紫国(福岡)での執政地。神功皇后が神託を受けた宮でもある。香椎宮から少し離れた場所には「古宮跡」が造られている。

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神功皇后(じんぐうこうごう)

神功皇后(じんぐうこうごう)・・・開化天皇の曾孫で仲哀天皇の后。和風諡号(わふうしごう・実名)は「息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)」。

神功皇后は仲哀天皇の急死に驚き、祭儀をもって神託を与えた神の名を問う。
すると様々な神の名を告げられ、最後に「底筒男(そこつつのお)、中筒男(なかつつのお)、表筒男(うわつつのお)」の名を告げた。

神功皇后がその神々を祀ると、追い風になるような神威が次々に起きる。
そして神功皇后は、この勢いに乗じ「西方の国の宝がほしい」考えるようになる。

この願いを祀った神々に問うたところ良い返事が得られ、神功皇后は西国(新羅)出兵を決断する。
胎内に子を宿し、この時臨月を向かえていた神功皇后は、腰に石を挟むことで出産を遅らせたと伝えられている。


神々に守られた西国への航海は極めて順調。
この勢いに気おされ、新羅国は無戦降伏をする。

神功皇后は新羅の宝物と人質を得、後世への印として新羅国の王門前に矛を突き立てた。


この話を聞いた高麗国と百済国の王はすぐさま神功皇后に頭を下げ、貢物を絶やさぬことを誓う。

そして神功皇后は「三韓征討」という偉業を成し遂げ凱旋。


「筑紫国の蚊田」で御子を出産した。この地は現在「宇美(うみ)」と呼ばれている。


神功皇后は御子「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」を出産の後、京へ向かった。


ところが畿内では、品陀和気命の異母兄である「香坂王(かごさかのみこ)」と「忍熊王(おしくまのみこ)」が神功皇后母子を討とうと謀を企てていた。

結果的にこの謀は失敗に終わるのだが、この航海の途中、神功皇后は神々の神託を得る。

天照大御神からは「自分の荒魂を広田に祀れ」との内容、
稚日女尊(わかひるめのみこと)からは「活田長峡国(いくたのながおのくに)に祀られたい」との内容、
事代主命からは「自分を長田国に祀るように」との内容、
そして底筒男・中筒男・表筒男からは「わが和魂を大津の渟名倉(ぬなくら)に祀れ」との内容だった。

神功皇后は教えのままに神々を祀り、無事に船を進めることができたと伝えられている。

※宇美八幡宮と住吉大社。

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宮地嶽神社(みやちだけじんじゃ)<福岡>
神功皇后が渡韓の前にこの地に滞在。宮地嶽山頂より大海原を臨み、祭祀を行なったとの伝説が残る。

玉島神社(たましまじんじゃ)<佐賀>
神功皇后が新羅出兵の前に「玉島川」で釣占いを行ない、その際に「鮎」がかかり「めずらしき物」と仰せられたとの伝承が残っている。

淡嶋神社(あわしまじんじゃ)<和歌山>
神功皇后が「三韓出兵」からの帰路、神託を得てたどり着いた島「友ヶ島」。この島は淡嶋神社のかつての鎮座地です。

厳原八幡宮(いづはらはちまんぐう)<長崎>
神功皇后が三韓征伐からの帰途に立ち寄り、背後の清水山を神霊が宿る山であるとし、天神地祇を祀ったとの伝承が残る地。

住吉神社(すみよしじんじゃ)<長崎>
神功皇后が新羅から帰還の折り、鶏知の行宮(かりみや)に入り、社を造営したとの伝承が残る地です。

海神神社(わだつみじんじゃ)<長崎>
神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を納めたとの伝承が残る神社。

住吉神社(すみよしじんじゃ)<長崎>
住吉大神の守護によって三韓征伐を為し遂げた神功皇后が、その帰途に三神を祀ったことに由来する神社。

西寒多神社(ささむたじんじゃ)<大分>
神功皇后が三韓征伐からの帰途、「西寒多山」に登頂し、その証として白旗を立てたとの伝承がある。

宇美八幡宮(うみはちまんぐう)<福岡>
神功皇后が新羅から凱旋後、応神天皇を産んだ宮とされている。境内には出産ゆかりの史跡が多く残っている。

住吉神社(すみよしじんじゃ)<福岡>
神功皇后が新羅から凱旋後、守護神である「底筒男神・中筒男神・表筒男神」に感謝し創建した神社。福岡市博多区に鎮座している。

御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)<福岡>
仲哀天皇の崩御後、神功皇后は天皇の御魂代として霊石を軍船に積み、三韓征伐を成就。その御石をお祀りしたとの伝承が残る。

住吉神社(すみよしじんじゃ)<山口>
神功皇后が新羅から凱旋後、長門の豊浦に滞在した際建立。「底筒男神・中筒男神・表筒男神の荒魂」をお祀りしている。

廣田神社(ひろたじんじゃ)<兵庫>
神功皇后が天照大御神から神啓をうけ創建した神社。「天照大御神の荒魂」をお祀りしている。

生田神社(いくたじんじゃ)<兵庫>
神功皇后が天照大御神の妹神とされる「稚日女尊」から神啓を受け創建した神社。

長田神社(ながたじんじゃ)<兵庫>
神功皇后が「事代主命」から神啓をうけ創建した神社。兵庫県神戸市長田区に鎮座している。

住吉大社(すみよしたいしゃ)<大阪>
神功皇后が京に向かう途中「底筒男神・中筒男神・表筒男神」から神啓をうけて創建した神社。全国の住吉神社の総本宮とされている。

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応神天皇(おうじんてんのう)

第15代・応神天皇(おうじんてんのう)・・・仲哀天皇の第四子。和風諡号(わふうしごう・実名)は「品陀和気命(ほむだわけのみこと)」。

品陀和気命は3歳で皇太子となり、この時大和国の磐余(いわれ・現在の桜井市)に新都がつくられた。


実質的な政は摂政である神功皇后が司り、神功皇后崩御の後に品陀和気命は皇位を継いだ。

神功皇后は享年100歳と伝えられ、応神天皇も110歳まで生きたと伝えられている。


応神天皇の治世に、大和の勢力は大きく拡大し、神功皇后が征討した三韓からは貢物が届けられ交流も盛んだった。


応神天皇の死後、その御神霊は大陸から伝わった仏教文化と結びつき、「八幡大神(はちまんおおかみ)」として崇められるようになる。


とりわけ源氏は氏神として信奉し、八幡神は武神としての性格を強く帯びるようになっていく。

​※写真は宇佐神宮の鳥居と社殿

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宇佐神宮(うさじんぐう)<大分>
欽明天皇の御代に応神天皇の神霊が現れ、この御神霊を「八幡大神」としてお祀りしたことに始まる。全国の八幡神社の総本宮。

誉田八幡宮(ほんだはちまんぐう)<大阪>
応神天皇の墓陵の前に建立された神社。日本最古の八幡宮を称している。

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参考書籍
「古事記」岩波文庫
「古事記(上)(中)」講談社学芸文庫
「劇画古事記・神々の物語」バジリコ
「日本書紀(上)全現代語訳」講談社学術文庫
「すぐわかる日本の神社」東京美術
「古事記・日本書紀を歩く」JTBパブリッシング
「日本の神社と神様がわかる本」大和書房
「八百万の神々」新紀元社

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